まえがき。

本文書は、お茶の水女子大学大学院理学専攻・伊藤研究室の関係者で、博士後期課程進学に興味をもつ人へのメッセージとして作成したものです。 もともとは研究室内資料として、「学生への強引な進学勧誘は避けたい」という思いから書いたものです。2012年に研究室ウェブにて公開したところ、各地で拡散されて大量のページビューを記録するようなページになりました。多くの方にご覧いただき大変光栄に存じます。その後2021年に大幅更新して現在にいたっています。

あくまでも本文書は伊藤研究室の周辺の事情をもとにして書かれています。本学の情報科学領域において博士後期課程の女子学生の進路は極めて恵まれており、博士後期課程に進学したら就職に却って不利という状況は一切生じていません。さらに、本文書は拙研究室の博士後期課程学生の大半が社会人学生であることを前提に書かれています。伊藤は「研究者を目指さない人であっても、研究が好きであれば、あるいは研究を通して自分を磨きたいという意思があれば、ぜひ進学してほしい」「むしろ研究者以外にも博士課程修了者が増えることがこの国において重要である」と考えています。世間一般の博士後期課程のイメージとは大きく異なる方針にもとづく研究室のメッセージであるということを踏まえて以下をお読み頂ければと思います。

このページは伊藤の個人的考えを述べたものであり、学内の他の先生方が同じ意見を持っているとは限らない点にご注意下さい。


私の他にも、いろんな方々が博士後期課程進学についてウェブ上で述べられています。 有名なものをいくつかリンクいたします。

※以下、1,2章は本学に限らず情報科学分野における博士後期課程の一般論を述べたものであり、3章以降は本学に特化した内容になっています。

1章:なぜ進学しないのか

日本では人口あたりの博士取得者数は多くありません。 科学技術・学術政策研究所が発表している「科学技術指標2022」の 3.4学位取得者の国際比較をみると、日本の100万人あたりの博士号取得者は他の主要国よりも低く、しかも微小ながら減少傾向にあります。
では何故、日本では博士号の取得率が低いのか、いくつか仮説と、それに対する見解を述べたいと思います。

[仮説1] 博士後期課程に進学すると企業への就職が悪化する。
→通説としてはそう言われていた経緯もありますが、状況は大きく変わっています。情報科学系およびその周辺分野に関して言えば、例えば2018年には、 ZOZO TownがJREC-INという研究者人材データベースに博士後期学生の求人公募を出して話題になりました。また2019年には、 野村證券が博士後期学生専門の求人を出して話題になりました。 この他にも情報科学系およびその周辺分野では、博士後期学生を歓迎する採用人事が急増しており、博士後期課程後の企業就職には追い風が吹いています。
また本学に限って言えば、博士後期学生と企業のマッチングイベントが充実しており、情報系に限らず幅広い分野の博士後期学生が順調に企業に就職しています。 さらに本学科に限って言えば、ICT業界が専門性の高い女性の採用を非常に強く推しているという事情もあり、他大学・他学科に比べても特に博士後期課程学生採用の恩恵を受けやすいといえます。

[仮説2] 海外では博士号取得者が格段に給与の面で有利な場合があるが、日本では博士号を持てば億万長者になれるとは言えない。
大学院進学者は生涯賃金ベースで学部就職者を上回るという説は内閣府や経済産業研究所からも出されており、一方でその反論もよく聞かれます。どの説をみても「進学したぶんのモトはとれるかもしれないけど、進学したから自動的に億万長者になれるものではない」ということは言えるかと思います。一方で、極論かもしれませんが「給与は水物」でもあります。収入にもとづいて自分の人生を考えるだけでなく、「専門性の高い職種に就けること」「学生時代にしか得られないスキルや経験をつけること」の価値が自分の人生においてどれくらい重要であるか、同時に考えたほうがいいのではと私は考えます。
ところで海外では高収入を目指して博士進学する人が多いのでしょうか。私は2019年に「博士のキャリアデザインワークショップ」という会合で講演をするために、何カ国かの情報系研究室の博士後期学生をヒアリングしたのですが、多くの研究室から「博士号をとったほうが生涯賃金が高いなんて一部の人だけだ」「生涯賃金を優先するなら修士卒でITエンジニアのほうがいい」「博士進学はみんな収入より興味で選んでいる」という回答がありました。

[仮説3] 海外では博士後期課程学生に給与を出せるが、日本ではそうはいかない。
→伊藤研究室の博士後期学生は社会人学生が大半を占めるので、研究室内の事情としてはこの点は議論する必要はないかもしれません。以下に一般論を述べます。
博士後期学生が金銭支援を受ける手段としては、日本学術振興会の研究員を目指すのが最も一般的な手段かと思います。。また文部科学省は「リーディング大学院」「卓越大学院」「大学フェローシップ」といった形で博士進学を支援しています。しかしそれでも給与と呼べるほどの額には達していない面があり、より一層の支援が期待されます。 一方で、私が研究を通して交流を持っている海外の研究室に限って言えば、給与を支給する形での研究室配属は学生採用の倍率が非常に高いことが多く、それに比べると日本の支援のほうがまだ採用される確率が高いようにも感じられます。

[仮説4] 日本では女性の高学歴化が歓迎されないため、女性の博士号取得者が少なかった。
→確かに私が学生の頃(大昔!)にはそのような声がよくありましたが、事情は変わってきています。一足先に米国では2010年以降、男性より女性のほうが博士号取得者が多いという状況になっています。

2章:なぜ進学するのか

「研究が面白いから」「学会で活躍したいから」

これだけで理由としては十分じゃないでしょうか。 そう思った人、それだけで博士後期課程に進学する価値はあります。 ぜひ進学しましょう。


…というのは楽観的すぎるかもしれません。皆さんにとって博士後期課程への進学は、3年間の長い時間と100万円以上の学費をかける大きな投資です。それに対してどのような利益を回収できるのか、少し考えてみましょう。

修了後のキャリアにどう関係あるのか

研究機関(大学や独法系研究所など) に就職したい人にとって、少なくとも情報科学系分野において博士号は必須です。もはや進学を迷う余地はありません。ただ、研究機関への就職は狭き門であることを覚悟しておきましょう。

企業 に就職したい人にはどんなメリットがあるでしょう。以下に、情報や電機などの業界で私が実際に耳にした話を正直に書きます。
  • 企業内の研究部門に配属されたい場合、あるいは長く留まりたい場合に、博士号をもっていたほうが有利、という人事上の話をよく聞きます。私の企業人経験ではあまり感じませんでしたが、企業によっては実際にあるようです。また最近では、博士号をもっている人しか新卒採用しない企業研究所も増えているような印象があります。

  • 海外に比べて日本の研究開発部門には博士号所有者の比率が低く、このままでは日本が格下に見られて困るから、ぜひ博士号を取得して欲しいという話も聞きます。私は外資系企業にいましたが、各国の博士号取得者の比率に関するデータが全世界的に公開されたことがあり、日本と他国の違いに愕然としたことがあります。これでは日本を無意識のうちに格下扱いしている人がどこかにいてもおかしくありません。また、このままでは企業が研究部門を縮小する際に日本から先に縮小することも起こりかねないという危機感を私はもっています。

  • 技術営業やコンサルテーションなど、顧客を納得させる類の業種において、名刺に博士と書いてあることが威力になる場合がある、という話も聞きます。これらの職種には研究職からの異動者も多いので、実は博士号取得者が意外と多いはずです。そのような人たちに比べて見劣りしないように、という心情は実際にあるかもしれません。

  • 転職の際に人目を引く「ハク」として学位が欲しいという人もいます。企業の業務の中には、特定の企業の中でのみ高く評価される業務もあります。それに対して転職の際には、どの企業でも通用する汎用的な専門性のほうが高く評価される場合も多々あります。そこで、汎用的な専門性を証明する典型的な手段として博士号が有効な場合があります。  

  • 女性だからこそ男性以上に博士号をという声も最近よく聞くようになりました。今後どんなに男女平等が進んでも、出産のブランクだけは女性特有のものであることに変わりありません。出産休暇・育児休暇を取って職場に復帰される際に、本人の専門性を実証できるか否かで復帰後の配属や職種がわかれるケースがあるそうです。職場にもよりますが、博士号がそのための強力な証拠となった実例があると聞いています。  

  • 海外移住した人の就職や起業にも同様に、本人のハクが必要なケースがあります。例として、起業して銀行から融資を受ける際に、博士号を持っているからという理由で即日融資が認められたが、それがなかったら認められなかったのでは、という事例を聞いたことがあります。

博士後期課程への進学に興味を持った際に、自分が志願する進路が上記のいずれと関係があるか、ということを考えてみるといいかと思います。

在学中にどんな特権があるのか

あくまでも私見ですが、こんな点が(少なくとも情報科学系の)大学院生の特権でしょう。
  • 企業に就職すれば研究にも利潤が絡みますし、独立法人系研究所に就職して国家プロジェクトに関われば研究にも政策が絡みます。そのような複雑な状況を考えずに、純粋に、真理や好奇心を求めて研究ができます

  • 組織での研究成果には研究者の名前が公開されないこともあります。それに対して、学生のうちは必ず自分の名前で研究成果を発表できます。言い換えれば自分の名前を高く売るために研究ができるのが学生の特権です。

  • 組織に勤務すると異動やチーム再編成などの事情で同じ仕事を続けるのが困難な場合があります。それに対して、学生なら原則として自由に研究テーマを選び、一定期間にわたって同じテーマに従事し、腰を据えて一つのテーマを極めて第一人者を目指すことが容易です。

  • 就職先での研究には競争や機密がありますが、学生のうちは原則として何でも発表できますし、誰とでも共同研究をできますし、どこにでも研究を見学に行くことができます。(注:社会人ドクターの場合には制約があります。)

  • 文章力、プレゼン力、英語力、といった基礎的なスキルも、学生の立場でいるほうが自分の思うままに高めることができます。就職してしまうと、これらのスキルを伸ばす職種に恵まれるとは限りません。
逆に、早く産業界で働いたほうが身につくこともあるでしょう。例えば、自分の仕事が実世界でどのくらいの金銭的価値に相当するのか早く知りたい、というのであれば企業で働くのが一番です。私はそのような考えを尊重して、社会人学生としての進学も同時に推奨しています。

博士号取得に向けた私の研究室運営方針

博士後期課程に関して私はかねてから 「アカデミア研究者を輩出する」よりも「博士号を取れる実力のある人を随所に輩出する」 ことを念頭に置いています。例えばIT業界なら、研究職だけでなく、エンジニアやコンサルタントも含めて、いろんな職種の人が博士号を志す社会を目指しており、自分の研究室運営もそれに沿っています。
この方針については、情報処理学会誌2017年5月号の特集 「博士課程進学のメリット・デメリット」 の中でも議論しています。


だいぶ前の話になりますが、社会人学生として博士後期課程への受験を希望した人から、「博士号は欲しいけど研究者になるわけではない、博士後期課程の研究は一種の趣味だ」と言われたことがあって、私はハッとしました。本学の博士後期課程の3年間の授業料総額は、私が新卒企業就職時に購入した中古車と同じくらいです。自動車を運転しない人が同じ金額を博士後期課程に投入するとしたら、一種の趣味と考えても悪くないと思います。優秀な学生が社会で活躍しつつ、趣味の一環で実力をつけて博士号をとって、ますます社会で活躍する、というのもこれからの博士後期課程のロールモデルの一選択になって然るべきだと思っています。

※上述のような方針を人に話すと、時々「いまアカデミアでは女性研究者を増員させたいんだから博士号を目指す人にはアカデミア研究者を目指させるべきだ」と言われることがありますが、私はこの意見に同意しません。女性が不足しているのはアカデミア研究者だけではありません。例えばIT業界であればエンジニアもコンサルタントもデータサイエンティストも、どの職種にしても女性を増やしたいことには変わりないのです。

3章:入学までに何をするのか

入試を受けてください

本学の場合、9月と3月に入試があり、8月と1月に出願期間があります。 本学の理学専攻においては定員枠が厳しくないので、これを読んでいる伊藤研関係者の実力をもってすれば心配はないでしょう。

本学大学院の募集要項を見て頂ければわかりますが、 「学生募集要項」と「進学者選考要項」があります。 大雑把にいうと以下のような違いがあります。 在学中に合格してしまえば金銭的に大幅にお得ということが明らかです。

学生募集要項 進学者専攻要項
対象者 既に博士前期課程を修了した人
他大学の博士前期課程を修了した人
本学の博士前期課程に在学中の人
金銭的な違い 受験料も入学料も支払う必要がある 受験料も入学料も支払う必要がない

入試より重要なこと

入試のための対策を考えることは、あまり重要ではありません。 手続き的に抜かりがなければ、きっと合格できます。 それよりも、以下を考えるようにして下さい。
  • 研究に邁進して、実力をつけて下さい。国際会議への講演や、ジャーナルへの投稿を、鋭意進めて下さい。
  • 博士後期課程に進学したらどんなテーマで研究を進めるか、研究計画を書く機会にしっかり考えて下さい。
  • 博士号をとったときに、どんな自分になりたいか、どんな進路を歩んでいたいか、想像してみてください。最高の自分を想像して、そこに向かってモチベーションを上げていきましょう。
  • 進学を100%確信していなくても、進学に興味があるなら受験を検討して下さい。在学中なら検定料はかかりません。学科の先生方は全員、皆さんが進学に興味をもつことを心から歓迎します。

さて、学部生や博士前期1年の皆さん、今のうちにこのページを読んだことを喜びましょう。 まだ博士進学まで時間のある皆さんこそ、今のうちから研究に邁進していただく必要があるからです。

博士後期の学生にはそれなりの研究成果が求められます。 研究のプロセスやノウハウの習得は時間がかかるものであり、 いきなり頑張り始めて簡単に成果が出るものではありません。 つまり、学部生のうちからの鍛錬があって初めて、 博士後期での活躍が起こりえる、というものなのです。

また、博士後期の学生には、インセンティブを狙える機会が多数あります。 学会等での表彰、奨学金の返済免除、日本学術振興会などの研究員としての採用…。 これらは皆原則として、学部時代からの研究成果の積み重ねが評価された人が認められるものです。

つまり、博士後期に進学したい人こそ、進学後の優勢な立場を目指して、 学部生のうちから研究に邁進する必要がある、と考えられます。

4章:進学したら何をするのか

研究に邁進して下さい。

総論ではその一言に尽きるのですが、入学時点から注意すべき点がいくつかあります。

研究内容の一貫性を保つ

お茶大情報科学領域では後述の通り、一定本数以上の学術論文の内容を博士論文に載せる必要があります。そして掲載内容全般を包括する大きなタイトルを博士論文に対して設定する必要があります。逆に言えば、全く脈絡のない論文業績があっても、それを合体しただけでは博士論文を書くことはできません。
※形式的には博士後期課程入学時に、博士後期課程での研究課題の題目を提出して、それに沿って研究をすることになっていますが、現実には博士論文を書く時点でタイトルを再考することになるでしょう。

言い換えれば、いま自分の目の前にある研究課題は、将来の自分の博士論文の一部になりうるか、といったことをある程度考えながら研究計画をたてることも重要になってきます。結果として例えば、
・修士までの研究をそのまま続行する
・修士までの研究から派生した方向に研究を移行する
・修士までの研究を一切忘れて新しく研究を始める
などのいくつかの選択肢が生まれてきます。

これに加えて、社会人博士学生として入学する人には
・会社の仕事に関する研究成果で論文を書く
・会社の仕事とは独立に、しかし会社の仕事に近い分野で、大学で研究を進める。
・会社の仕事とは全く関係ない分野(例えば修士論文までの分野)で、大学で研究を進める。
という選択肢が生まれる場合もあります。

以上の選択肢をどのように選ぶか、指導教員だけでなく他の関係者ともよく相談して考えて下さい。
※これらの選択肢をよく考えた結果として過去には、博士後期課程入学後に他研究室から伊藤研究室に移ってきた例もあります。ひょっとしたら逆に、伊藤研究室から他研究室に移りたいというケースもあるかもしれません。その可能性も含めて、念入りに周囲と相談しましょう。

博士後期課程にも単位の概念がある

本学においても、いくつかの科目を履修し、指導教員から論文指導を受け、2年間にわたって研究報告を提出する必要があります。

これらの単位を取得し、所定の年数だけ博士後期課程に在学するのとは別に、博士論文の審査を受ける必要があります。 ここで注意して欲しいのは、博士後期課程では論文指導を受けて研究報告を提出した成果が研究として認められる、ということです。 言い換えれば、『博士後期課程在学中に大学や指導教員とともに出した研究成果』を含まない博士論文は認められないということを意味します。 この点をくれぐれもご注意下さい。

課程を修了した段階で(博士論文の審査を通過する前に)大学に授業料を払うのをやめてしまうことも可能です。その状態を俗に単位取得退学といいます。 本学においては、単位取得退学してから博士論文の審査を受ける制度があります。 この制度によって例えば、就職と同時に単位取得退学し、勤労しながら博士論文の審査を受ける、といったことが可能になります。

5章:博士論文が審査を通過するまで

本学情報科学領域の博士論文の審査基準(内規につき一部割愛)には、以下のようなことが書かれています。

博士論文は(中略)新たな知見を含み、質・量において博士論文にふさわしい内容を持ち、その発展または応用を期待させるものであること。
博士論文の内容に関する論文が(所定の本数)以上あること(以下略)

つまり、学会に採録された論文の本数は、博士論文が審査を通過するためのいくつかの必要条件の1つに過ぎないということであり、所定の本数の論文が学会に採録されたら自動的に博士号がもらえるわけではないと考えるべきです。

さて、少なくとも伊藤研において、博士論文は大雑把に、以下のように構成されます。

  • 掲載する内容全体に一貫するテーマを作り、それを論文の題名に反映して下さい。大きな目での共通点があれば結構です。むしろ一つの研究分野を確立するくらいの大きな気持ちで題名を決めることが重要です。
  • 論文の1章では、その研究分野を広く概観し、その中の大きな課題を提示し、それに対して「この課題はこう解決されるべきであり、私はこのように解決した」という哲学を語って下さい。
  • 論文の2章では、その研究分野における参考文献を、世界中のどの文書よりも多く参照して紹介して下さい。そして、それに対して自分の研究がどのように先進的であるかが明確になるようにして下さい。
  • 論文の3章以降では、自分の研究成果を述べて下さい。
  • 研究成果を述べる章では、博士論文の審査基準に関する学術論文の内容、および博士後期課程の単位取得に必要な論文指導や研究報告に関連する内容が書かれているべきと考えます。
  • 研究成果を述べる章は、学会投稿論文のコピペではいけません。場合によっては、もっと研究内容を網羅的に記述しないといけない場合もあります。また、一本の学位論文としての統一性をとる方向で記述を改める必要があるかもしれません。これについては修士論文を書く時点で既に身についているであろうと期待します。
  • 論文の最終章では、博士論文の研究課題に対する総合的なまとめを述べて下さい。
以上の条件を鑑みると、博士論文への執筆内容量は、研究テーマによって、また各自の事情によって異なってきます。概して、学部・修士から伊藤研で一貫して研究をしていた人のほうが、内容が多くなります。しかし、内容が多くなることを「労力が大きくなって損だ」と考えてはいけません。むしろ、自分は内容豊富な博士論文を書くための材料に恵まれたのだ、と考えていただきたいと思います。

博士論文を所定の日までに提出したら、指導教員を含む5人以上の審査員により、研究内容が審査されます。その後に、公開審査会と称して大人数の前で発表します。

この過程において研究内容について、たとえ既に学会の査読などで認められた内容であっても、かなり多くの修正を要求されるであろうと思います。 ひとえに、学会と博士論文とでは審査基準が同一ではないからです。 ですので、博士論文の審査には大きな労力が必要とされることを、最初から念頭に置いて下さい。

ただし、このプロセスは皆さんが博士をとるための重要なステップです。 学会論文1本という単位よりも何倍も大きい、研究テーマ1個全体を1本の論文にまとめる、というステップは皆さんが大きな目で研究を見つめる視点をもつためのいい訓練です。 また、博士号をとるまでの研究発表の大半の機会は、自分に近い専門性をもった人たちの集会によるものですが、それに対して博士論文の審査は情報科学の中で少し離れた先生方によるものです。よって、違う専門性をもった研究者にも納得してもらえるように研究成果をまとめるスキルをつける意味でも重要な機会です。

お茶大では博士論文提出から審査終了まで実質的に3ヶ月程度しかありません。提出から3ヶ月以内に審査基準を満たさなかったら学位取得は最低6ヶ月延期です。個人的にはこのスケジュールに満足していないのですが、大学全体で決まっていることなのでどうしようもありません。そこで伊藤研究室では独自に、博士論文提出の数カ月前に、将来の審査委員の先生方に研究内容を紹介する非公式審査会を開き、事前に多くのコメントを頂くことにしています。これをもって実質的に長い期間をもって研究内容を審査してもらい、学位取得の延期を防ぐように努力しています。

6章:社会人博士学生志願者へ

お茶大伊藤研の博士後期課程進学者は、社会人学生としての進学者が過半数を占めています。それも、博士前期(=修士)課程を修了してすぐに企業に就職し、それと同時に博士後期課程にも進学する、という人が多数を占めています。

ただし、本学には正式な社会人博士制度は存在しません。 よって、授業料も、単位取得基準も、博士論文審査基準も、全てフルタイム学生と社会人学生との間に差異はありません。

ですので社会人博士として入学して、就職先の研究成果だけを持ち込んで「これで博士論文を書かせてくれ」といっても(少なくとも伊藤研では)認められるものではありません。 フルタイム学生と同等の論文指導を受け、フルタイム学生と同等の研究報告を提出し、指導教員と共著で博士後期課程入学後に学会発表した、という研究成果を一切含まない博士論文を書くことはできません。 この点にはくれぐれもご注意下さい。

多くの大学には社会人に別枠の博士後期課程があります。 そのような大学の中には、授業料も博士論文審査基準もフルタイム学生とは別に設定されていたり、社会人だけは飛び級で修了しやすい制度があったり、という大学もあります。 人によっては、社会人で博士後期課程に入学することを、そういう制度のある大学に入学することであると勝手に誤解する人もいるかもしれません。 そのことが理由で学外の人と会話が食い違うことがあるかもしれませんので、念頭に置くといいでしょう。

私個人的には、情報科学のソフトウェア系の研究分野において、社会人博士は意義の高いものであると感じています。 大学にはない企業独自のソフトウェア開発手法を習得した人や、ビジネスに堪えうるソフトウェアの開発経験を有する人の研究は、それだけで一定の価値があると考えるからです。 よって私は、社会人としての博士後期課程入学を、心から応援しています。

ただし社会人博士学生の場合、スケジュールも大変忙しくなりますし、勤務先企業の都合で研究が難しくなることもあります。そのようなリスクに対してどのように対応可能であるか、博士進学前によく打ち合わせましょう。また、社会人博士学生といえども伊藤研では、学生からの自主的な申し入れによって研究の議論に応じるという体制で研究を進めています。よって社会人博士学生にはフルタイム学生と比べて一層、自主的な研究進捗管理と積極的な報告・相談が必須 であることをご理解ください。

あとがき

博士後期課程の事情は、大学によって、研究分野によって、研究室の方針によって、それぞれ大きく異なるものです。言い換えれば、世代や分野や出身大学の異なる人の意見から、 博士後期課程に進学することの是非を正しく判断するのは困難かもしれません。
また他大学の学生から、「大学教員はやみくもに博士後期課程への進学を薦めるばかりで話に具体性がないので信用できない」という話を聞くこともあり、私としては一層の情報公開が必要だと感じる次第です。
以上の状況を考慮して本文書では、できるだけ第三者的に、実際に進学した人の意見も聞きながら、伊藤研究室における博士後期課程への進学に関する情報を記述したつもりです。

伊藤研では博士後期課程の学生に対して、学部や修士の学生と同様以上に、以下のサポートを確約します。

  • 論文指導の単位がある以上、学部や修士の学生以上に個別の研究指導があるのは当然です。
  • 進学に興味のある学生には、修士学生のうちから、大きな成果を出す方法を戦略的に模索します。
  • 国際会議投稿には予算がかかりますが、博士後期課程学生(または進学予定の学生)の国際会議投稿は常に高い優先度を有します。
  • 博士論文を書き始める際には、将来の審査員となる先生方との意見交換会を早めに企画し、研究成果を早期に完成に近づけられるようにスケジューリングします。
  • 研究職の就職活動には人脈が必要な場合がありますので、それについても協力します。